東大寺見聞録

奈良のシンボル的存在として奈良の大仏様と親しまれている日本最大の大仏、それが毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)です。その奈良の大仏を本尊としているのが大和国分寺であり全国の総国分寺でもある華厳宗大本山東大寺です。
東大寺は天平13年(741)に全国に国分寺が建立されたとき、金鐘寺(こんしゅじ)を大和国分寺として金光明寺(こんこうみょうじ)と称したのがはじまりとされています。その後聖武天皇が大仏造顕の詔を発布し天平勝宝4年(752)の4月9日に開眼供養が営まれました。その後、延暦8年(789)に大仏殿や講堂などの伽藍が完成。しかし、治承4年(1180)に炎上、元暦元年(1184)に大仏が開眼されましたが永禄10年(1567)に再び炎上し、約120年の放置の後元禄5年(1692)に大仏開眼、宝永6年(1709)に大仏殿も落慶し現在の形が作られました。

華厳宗というのは南都六宗の1つで、審祥(しんしょう)という人が東大寺で華厳経を講じたのが最初と言われています。その後、良弁(ろうべん)僧正(689-773)が発展させたといわれています。東大寺が大本山ですが他に新薬師寺や帯解寺、文殊院などが属しています。

大仏殿

東大寺の金堂は通称大仏殿と呼ばれその名の通り中には大仏様が安置されています。高さは47.34メートル、東西の幅57メートル、南北は50.48メートルの大きさは天平時代の創建当時と比べると東西の幅が3分の2に縮小されていますが、それでも世界最大の木造建造物として国宝に指定されています。
大仏殿の中にいる国宝の毘盧遮那仏は高さ3.05メートルの56葉の蓮華座の上に高さ14.91メートル、重さ452トンという偉容を誇っています。作られて入ら何度となく火災にあい、その度に補修がほどこされています。右手は天正8年(1580)、頭部は元禄3年(1690)に改鋳されています。元々は全身金ぴかだったそうですが、火災にあう内に今のような色合いになりました。
大仏に向かって右手奧にある柱の根本には大仏の鼻の穴と同じ大きさと言われる穴が空いていて、ここをくぐると幸運に恵まれると言われています。

正倉院

大仏殿の北の松林の中に校倉造(あぜくらづくり)の正倉院は建っています。この正倉院は絹の道(シルクロード)の終着点として聖武天皇の遺品などが納められていました。元々は東大の正倉でしたが、明治8(1875)年に管理が国に移り、現在では宮内庁が管理しています。
現在はこの校倉造の正倉院には宝物はなく、昭和28(1953)年と昭和37(1962)年に作られたコンクリート作りの東西新宝庫の方で管理されています。
この正倉院が現代まで伝わり貴重な天平文化やシルクロードゆかりの品が現存する理由の1つはまがりなりにも天皇家が存続し続けたからと言えると思います。

南大門

大仏殿から真っ直ぐ行った先にある南大門は高さ25.5メートルの楼門(ろうもん)で、現在のものは正治元年(1199)年に再建されたものですが、中国から移入された大仏様式(だいぶつようしき)の代表作として国宝に指定されています。楼門というのは、2階建ての門で、初層が屋根でなく縁(えん)を巡らしている物のことを言います。
門の左右にはあ形とうん形からなる高さ8.4メートル重さ6トンを超える金剛力士像が安置されています。これは、運慶と快慶の一門が建仁3年(1203)10月3日に造立したと言われ、国宝に指定されています。
昭和63年から5年がかりで大規模な解体修理が行われました。従来の一木造りとは異なり寄木造りという仏像をいくつもの細かい部品にわける技法で作られています。
あ形はいっさいのはじまりを意味し、うん形はいっさいの終りを意味します。

ちなみに、長野県諏訪市の仏法紹隆寺(ぶっぽうしょうりゅうじ)に古くから伝わる高さ40センチメートルの不動明王像が今から(2001)4年前に運慶作の物ではないかと言われるようになりました。これは運慶作のものとしては最も小さい物となっています。

南大門はまさに奈良公園の中にあり、周りには多くの鹿がいます。鹿せんべいをあげるのもいいかもしれませんね。

転害門

大仏殿の西北、つまり大仏殿に向かって左の奧、正倉院の裏の国道369号線に面した所にあるのが転害門(てんがいもん)です。この門は3間1戸の八脚門で、本当に数少ない東大寺創建当時の遺構として国宝に指定されています。

二月堂・三月堂

3月に行われる修二会(しゅにえ)通称お水取り(おみずとり)で有名なのが、大仏殿に向かって右手の山の中腹にある二月堂です。天平勝宝4年(752)に創建したと言われていて今の建物は寛文9年(1669)に再建されたものですが、重要文化財に指定されています。本尊の十一面観音像は秘仏ということで、見ることが出来ませんが、ここからの奈良の市街地の眺めは素晴らしいものがあります。

お水取りは奈良時代以来脈々と受け継がれている伝統行事で2001年で1250回を迎え過去行わなかった年は1度もないと言われています。

法華堂とも呼ばれるのが二月堂のすぐとなりにある三月堂です。これは元々は東大寺の前身である金鐘寺の建物の1つとして天平18年(746)頃に建立された東大寺最古の建物で、国宝に指定されています。旧暦の3月に法華会が開かれるところから法華堂とか三月堂と呼ばれるようになりました。
堂内には日光菩薩や月光菩薩をはじめ、四天王像や金剛力士像など国宝や重要文化財の仏像が16体安置されています。

戒壇院

大仏殿に向かって左手の松林の階段を上がった上にあるのが戒壇院です。天平勝宝6年(754)に鑑真が聖武上皇ら400人に大仏殿の前で戒を授けた翌年に孝謙天皇の命で建立されました。今の堂は享保17年(1732)の再建です。
堂内の四隅には国宝にしていされている天平の四天王像が安置されています。
四天王というのは、仏教の世界観で世界の中心にあると言われている須弥山(しゅみせん)の中腹で四方を守っているとされている仏神です。東に持国天(じこくてん)、南に増長天(ぞうちょうてん)、西に広目天(こうもくてん)、北に多聞天(たもくてん)がいます。また、皆が邪鬼を踏んで立っています。

1998年5月20日の午後1時頃東大寺戒壇院千手堂から出火し木造瓦葺平屋建ての堂屋約175平方メートルが全焼する火事がありました。

東大寺歳時記

2002年は752年の大仏開眼供養から1250年目の節目の年。その年の10月5日に全国に約4万社を数える八幡宮の総本社とされる大分県の宇佐神宮からの御輿が東大寺の大仏に詣でました。これは続日本紀に伝わる749年以来1253年ぶりのこと。この時の宇佐神宮の一行が輿に乗って大仏を訪問したことが御神輿の始まりという説もあります。
また同じ10月5日からは東大寺の前面に広がる奈良公園において春日大社の神事であるシカの角切がはじまりました。ちなみにこの恒例行事は寛文11年(1671)からはじまったといわれています。


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