法隆寺見聞録

 現存する世界最古の木造建造物、法隆寺(ほうりゅうじ)。正確には聖徳宗総本山法隆学問寺といい、山号はありません。平成13(2001)年に没後1380年を迎えた聖徳太子ゆかりの寺としても有名で、斑鳩の里や奈良の象徴であると同時に日本の象徴の一つでもあります。その建物の多くが国宝であり、その収蔵物にも国宝や重要文化財が数多くあります。また、平成5(1993)年12月にはユネスコが指定する世界文化遺産の一つに日本で初めて登録されました。
 薬師寺(やくしじ)の西塔(さいとう)などを再建した西岡常一棟梁は代々この法隆寺の宮大工の家の生まれです。

 法隆寺は、推古天皇と聖徳太子によって推古15(607)年に創建したと言われています。日本書紀によると天智9(670)年の4月30日に全焼したという記述がある事から、現在の建物はその後に再建されたものだと言われています。再建されたものであってもそうでなくても、法隆寺が現存する世界最古の木造建築物である事実に変わりはありません。また、1,300年前の7伽藍全てが現存しています。
 そうそう、参考までに中国最古の木造建築物は782年再建の南禅寺で次ぎに古いのは857年創建の仏光寺と言われています。
 ちなみに2001年は聖徳太子が亡くなって1380年の節目の年にあたりました。

 寺域は大きく分けると、右に金堂、左に五重塔が並ぶ法隆寺式伽藍を中心とする西院と夢殿を中心とする東院に分けられ、その他にも多くの建物が存在します。

 戦後しばらくたって正式に聖徳宗総本山になるまでは薬師寺や興福寺などと共に法相宗大本山でした。

西院

 それぞれが国宝の中門、回廊、大講堂、金堂、五重塔からなる法隆寺西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物です。この西院伽藍は天智9(670)年に若草伽藍が全焼した後に場所を変えて建てられたと考えられています。金堂、五重塔、中門の順に建立されたと考えられています。

金堂

 入母屋造り(いりもやづくり)の金堂は飛鳥建築の特徴である、二重基壇の上に建っています。堂内には聖徳太子をモデルにしたと言われる鞍作止利(くらつくりのとり)仏師の手による推古31年の銘がある本尊の釈迦三尊像の他、東に推古15年の銘が入った薬師如来像、西に阿弥陀如来像、四隅には現存する日本最古と言われる四天王像などが安置されています。建物をはじめ、これらの仏像はすべて国宝に指定されています。
 金堂は昭和の大修理の最中の昭和24(1949)年1月26日朝に火災につつまれ、世界的にも知られていた12面の壁画があらかた焼失してしまいました。昭和42年に14名の日本画家の手によって再現された壁画が白壁を埋めました。
 昭和43年に再現された壁画は戦前に撮影されたカラー写真がもととなっています。これは、明治初期の廃仏毀釈や脱亜入欧の影響であれ果てていた法隆寺金堂壁画保存を東京美術学校(現在の東京芸術大学)の創始者、岡倉天心が大正2(1913)年8月7日に文部大臣官邸で行われた古社寺保存会で提言したことによります。
 この火災の時、本尊は疎開中で無事でした。
 ちなみに、昭和の大修理は20年の時をかけて昭和29(1954)年11月3日にすべて終りました。
 岡倉天心は明治17(1884)年に薬師寺東塔を凍れる音楽と評したフェノロサと共に数百年間開けられたことの無かった法隆寺夢殿の中の聖徳太子の等身増とも言われる秘仏救世観音像を見ました。また、天心はTHE BOOK OF TEA(茶の本)という英語による著作で日本文化を紹介し、この本は8ヶ国語に訳され、世界的なベストセラーとなっています。

五重塔

 金堂の西隣にそびえ立つ日本最古の塔である五重塔は高さが約32メートルです。各層が10,9,8,7,6の逓減率(ていげんりつ)で構成されているため、安定感に富んだ作りとなっています。
 また、塔の上にある相輪が塔全体の高さの3分の1をしめているのも、美しさを際だたせています。
 塔の中心に建っている心柱(しんばしら)は塔の構造からは独立していて、相輪(そうりん)を支えるためにのみ存在しています。

東院

 聖徳太子の斑鳩宮の跡に建てられたといわれる東院の中心伽藍である国宝の夢殿(ゆめどの)は、行信僧都(ぎょうしんそうず)が聖徳太子の冥福を祈り建てたと言われています。8葉の蓮華を模した八角堂で創建時そのままに建っています。国宝である本尊の救世(ぐぜ)観音像は聖徳太子の等身像と言われていて、4月11日から5月5日までと10月22日から11月3日までの間だけ開扉されます。

閑話休題・中宮寺

 法隆寺からは少し離れますが、夢殿の奧には中宮寺があります。これは、聖徳太子の母、用明天皇の皇后の御所を尼寺にしたものと伝えられていて、昭和43年に再建された本堂の中には国宝の弥勒菩薩(みろくぼさつ)半跏思惟(はんかしゆい)像が本尊としておいでになります。
 弥勒菩薩という仏様は釈迦の入滅後56億7000万年後の末法の世に現れて世を救うとされている仏様で、既に如来となる資格を得ているのに、あえて菩薩のままでいるとされています。なので、場合によっては弥勒如来と呼ばれることもありますが、それもけして間 違いではありません。弥勒菩薩の半跏思惟像とは、足を組んで、手を顎に当て考え込んでいる姿をしている像ですが、日本にはこの中宮寺と京都の広隆寺にしかいないと聞いたことがあります。ボクのとても好きな仏様の一つです。
 この国宝木造菩薩半跏像(伝如意輪観音)は高さ1.7メートルの仏様で飛鳥彫刻の最高傑作と言われています。
 聖徳太子の母をモデルにしたと伝えられているこの仏様は仏像は1本から作るのが普通だった飛鳥時代にあって11本の木からなる最古の寄木作り(よせぎづくり)の仏像です。
 寄木作りは平安時代に主流になった方法で、頭部と胴体を別々に作り、組み合わせる技法の事を言います。
 日本で仏像が作られるようになってからおよそ50年後に作られたこの傑作は御香の煙で黒く艶やかになりました。

トピックス

 2001年12月8日に平成6年からこの時期に行われているお身ぬぐいを行いました。これは仏像に降り積もった1年の埃をとるというもので、世界遺産登録を記念してはじまった年中行事です。

 平成10(1998)年10月22日、国宝の百済観音像を本尊とする百済観音堂の落慶法要が営まれました。落慶法要は26日まで続き、11月1日から一般公開されています。この観音堂は法隆寺が世界遺産に指定された事を記念するものです。

 国宝の百済観音像は飛鳥時代後期に国内で渡来人によって作られたと伝えられています。頭には銅で出来た宝冠を頂いています。
 平成2年11月に百済観音の総合調査が行われました。

 現在入母屋造りの屋根をしている金堂ですが、法隆寺初の本格的な解体修理である昭和の大修理の時に入母屋造りだった屋根を鍜葺き(しころぶき)にしようという話しがありました。当時、学者達は世界最古の木造建造物の屋根は国宝の玉虫厨子(たまむしのずし)と同じだと主張していたのです。それに真っ向から反対したのはこの一件から法隆寺の鬼と呼ばれるようになった西岡常一棟梁なのです。後に慶長の大修理の時の資料などを見返してみると確かに入母屋造りだったようです。もしその時西岡棟梁が入母屋造りを主張しなかったら、今頃法隆寺はどうなっていたんでしょうね。

 日本が誇る世界の宝、法隆寺。修学旅行でさ〜と見るだけではもったいないと思います。じっくりと自分のペースで見ると古い中から新しい発見があるんじゃないかなと思います。

 2001年2月20日に奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターが発表したところによると1943年から54年にかけて行われた昭和の大修理の際に切り取って京都大学に保管されていた心柱の一部のX線撮影をはじめて実施し、年輪年代法で測定した結果、伐採年代を594年と断定したと発表しました。
 この年代は五重塔の建立年代よりおよそ100年も前の事で、前年の593年には聖徳太子が摂政の位に就いています。

関連リンク

法隆寺
法隆寺の公式ウェブサイト。[05-07-01]

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