諏訪大社研究記

旧第一官弊大社、信濃國一之宮諏訪大社(すわたいしゃ)は、出雲大社伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮、伏見稲荷大社などと並ぶ古くからの有力神社の1つで、日本全国に1万を越える諏訪神社の総本社です。毎年真夏に行われる御舟祭(おふねまつり)や7年に1度の御柱祭(おんばしらまつり)は全国的に有名です。
全国に神社の数はおよそ11万社あると言われています。その中で末社の数でいうと伏見稲荷大社を総本社とする稲荷神社が3万を越えて1番多く、2番目にはおよそ2万5000社の八幡神社、そして諏訪神社は3番目に多いと言われています。

基本情報

諏訪大社というのは1つのお社(やしろ)の事をいうのではなく、諏訪地方に4つあるお社の総称です。諏訪湖を挟んで北側の下諏訪町に秋宮(あきみや)と春宮(はるみや)からなる下社(しもしゃ)があり、南側の諏訪市に本宮(ほんみや)と茅野市に前宮(まえみや)からなる上社(かみしゃ)があります。明治4年までは上諏訪社、下諏訪社として別のお宮であった。それ以前は下社と上社の間で仲違いなどもありましたが、明治以降は4つのお社で1つの諏訪大社として運営され、現在もその形で宗教法人諏訪大社は形成されていて、巫女さんなどに支払われるお給料も4つのお宮共通で支払われています。

諏訪大社の歴史は古く現存する日本最古の書物である古事記(こじき)においては出雲の国譲りに反対して諏訪までやってきてそこに王国を築いた記述があり、また古事記と並び日本最古の書物と言われる日本書紀(にほんしょき)にも持統天皇が勅使を派遣したという記述がみられます。また、大社の由来を記した『諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)』には征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東北へ向かう際に戦勝祈願を行ったと書かれています。

ちなみに、古事記は現存する日本最古の歴史書で上中下の3巻からなりたっています。神話や伝説などがまとめられています。日本書紀は日本最古の正史で勅撰の六国史(りっこくし)の1つです。編年体で全30巻からなります。この中で出てきた諏訪は今の諏訪ではなく州羽という漢字でした。

諏訪大社は延喜式において古代においては神社の中の最高位である名神大社とされ、信濃国一宮と称されていました。<また、明治4(1871)年に国幣中社、明治29(1896)年に官幣中社、大正5(1916)年に官幣大社となっています。神位は正一位。昭和23(1948)年と諏訪大社と改称しています。

今日大社と呼ばれるのは、島根県の出雲大社、静岡県の三島大社、長野県の諏訪大社、和歌山県の熊野速玉(はやたま)大社、熊野那智(なち)大社、熊野本宮大社、滋賀県の日吉大社、多賀大社、京都府の松尾大社、伏見稲荷大社、大阪府の住吉大社、奈良県の龍田大社、春日大社、福岡県の高良大社などがあります。

奉っている神様は、大国主命の子、建御名方命(たけみなかたのみこと)を上社にそしてその妻の八坂刀売命(やさかとめのみこと)を下社にと言われています。下社にはあわせて御兄八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)も御奉りしていると言われます。古事記には国譲りに反対して、相撲をとり、結果として負けて逃げてきた神様とされていますが、これは一説には大和朝廷があなどれない力を持っている諏訪の勢力を少しでもそぐための方策という説があります。

ちなみに、国譲りというのは古事記に書かれている神話の一説で、高天原(たまかがはら)の天照大神(あまてらすおおみかみ)によるの豊葦原(とよあしはら)の大国主命(おおくにぬしのみこと)への国譲りを迫る三人目の使者である建御雷之男神(たけみかずちのかみ)に対して大国主命の子、事代主命(ことしろぬしのみこと)は国譲りを承諾しました。一方その弟である建御名方命(かけみなかたのみこと)は国譲りに反対し、建御雷之男神と力比べ、今で言う相撲をしました。結果は建御雷之男神が勝ち、建御名方命は信州の諏訪まで逃げ、国譲りに同意しました。二人の息子が国譲りに同意したことを受けて、大国主命も国譲りに同意しましたとされているものです。そして建御名方命はその後諏訪の地を離れない事を約して許され、信濃の国の国造りをしたと伝えられています。

と、まあ、国譲りの神話も絡んで縁起が伝えられていますが、実際には大和朝廷の影響力が及ぶ前から土着の宗教として成立していたと考えられています。かつての諏訪湖は3倍くらいあり、4つの同じ標高にある社の脇まであった。御神渡りの始点と終点に柱を立てた。それが神社の始まりとも思われる。自然現象への畏敬から始まり、後世になり社が立てられたというお話し。

諏訪大社の最大の特徴として挙げられるものとして、諏訪大社には本来神様が奉られる本殿と呼ばれるものがないというのがあります。代りに秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として奉っています。古代の神社の多くは社殿がなかったとも言われています。つまり、諏訪大社はその古くからの姿を今尚残しているとも言えます。ちなみに、神殿がなく、背後の山を御神体としている例としては、奈良の大神(おおみわ)神社が三輪山(みわやま)を、春日大社が三笠山をそれぞれ御神体としている例があります。

諏訪明神は南宮大明神とも呼ばれますが、日本第一の軍神であり、水の神であり、元寇の撃退の功から日本第一の風神と鎌倉幕府に認められ、勇猛な神で、開拓神でもあり、皇室武門および一般の信仰も古来より厚かったとされています。また、奮起を促す神とも言われています。これは、出雲の国譲りの際、一度は破れているものの、信濃の国の国造りを成し遂げるたところから、1度や2度の失敗にめげてはならないという教えからきていまるとも言われています。また、古くは狩猟農耕の神、武家の時代には軍神、現在は産業・交通安全・縁結びの神として幅広く信仰されています。

諏訪大社の御神紋は三つ葉の梶の葉をモチーフとしたものです。これは上社と下社で若干異なっていて、下社の御神紋は梶の葉の足が五本あり明神梶と呼ばれ、上社の御神紋は足が四本で諏訪梶と呼ばれています。

中世の諏訪神社の祭祀は信濃一円の武士が御頭(おとう)という当番制でつとめていましたが、江戸時代は諏訪郡内に限定されました。

下社場合は弊拝殿の奧の方に並んで、上社本宮の場合は弊拝殿の横の布橋に並んで2棟建っている建物は、御宝殿といい、御柱年に交互に建て直されます。御宝殿は御神輿や御神宝を蔵める神聖な御殿で通常の神社の御本殿に相当します。御宝殿は寅から申までは向かって右側が正殿、申から寅までは左側が正殿と7年目毎に遷座されます。江戸時代以降現在では新築された物にすぐに遷座されているますが、古来は7年間清めてから行われていたそうです。

隣の国である甲斐の国の戦国武将で諏訪地方も領有した武田信玄の有名な白い毛のカブトがありますが、それは諏訪明神を意味しているそうです。祭事が多い事で有名な諏訪大社は上社で年間111、下社で84の祭事が行われます。また、大祭式は上社で4、下社で5、行われます。これは明治維新時の廃仏毀釈などの際に数多くの神社仏閣の祭事を受け継いだことも1つの要因としてあると言われています。

沖縄を除く全県にあると言われている全国の諏訪神社は全国諏訪神社連合会を結成。現在、約7,000社が加入しています。この連合会では年1回に諏訪で交流会を開いているとの事です。

行事の説明

御柱祭
7年に1度、寅と申の年に行われる式年造営。天下の大祭として木落としを中心に全国的にも有名です。
The Big Festival of Mihashira
お舟祭
毎年8月1日に行われる下社の遷座祭。巨大な柴舟を春宮から八幡坂を経由して秋宮まで曳行します。
御頭祭
神事の数が多い事で有名な諏訪大社。その数多い神事の中でも上社の中で最も重要で大規模な神事が毎年4月15日に行われている御頭祭です。かつては弥生の酉の日に行われていたので、酉の祭とも呼ばれます。その主要な神事は前宮の十間廊で行われ、今は複製の鹿頭をお供えしているが、その昔は75頭の血の滴る鹿の頭を備えていたとのこと。で、その中に必ず耳が裂けている鹿がいたことが、高野の耳裂鹿として諏訪の七不思議の1つに数えられています。
御頭祭に先立ち本宮では例大祭が執り行われ、一休みしてから、神事の後、御輿行列が前宮に繰り出し、御頭祭の神事が執り行われます。

お社の説明・下社

下社は諏訪湖の北側の下諏訪町に存在します。

平成20(2008)年9月1日に下社秋宮にて春宮の弊拝殿と左右片拝殿及び秋宮の弊拝殿と左右片拝殿と神楽殿の7棟の修理工事の安全祈願祭が大総代など約60人が参加して行われました。江戸時代後期と言われる建造から初めての大規模な修理工事。総工費は約4億円。約4年をかける。まずは春宮から着工し、秋宮は翌年10月頃に着工の見込み。

秋宮

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秋宮(あきみや)の住所は下諏訪町上久保5828。宝物殿はの開館時間は午前9時から午後4時まで。JR下諏訪駅から八幡坂を上り徒歩20分。中仙道下諏訪宿の近くにあることから、昔も今もも多くの参拝客が訪れます。一位の木を御神木としています。

神楽殿
鳥居をくぐって階段を上ってすぐ見える大きな建物は昭和58年12月26日に国の重要文化財に指定されている神楽殿(かぐらでん)です。天保6(1835)年、幕府から内匠(たくみ)の称号を許された立川流の二代目立川和四郎富昌の54歳の時の作です。
その名の通りお神楽を奉納する際に使用される他、結婚式から厄払いまで様々な祭事がこの建物で行われます。

弊拝殿
神楽殿の奥にあるのが弊拝殿(へいはいでん)です。この建物も神楽殿と同じく昭和58年12月26日に国の重要文化財に指定されています。安永6(1777)年に起工され安永10年に落成しました。工匠は諏訪出身で立川流建築の初代立川和四郎富棟です。拝殿内部の竹に鶴などは代表作となっている彫刻は中沢五平衛を師匠としていました。

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鳥居をくぐって一位の大木の手前を右手に曲がった処の境内には御神湯(ごしんとう)と呼ばれる竜の口から出ている温泉があり、自由に飲むことが出来ます。この温泉は消化器系にも効くと言われています。

弊拝殿に向かって左側にある子安社の御祭神は建御名方神の御生母とされる神の高志沼河比売神(こしのぬなかわひめのかみ)で御本社は糸魚川の奴奈川神社です。古来、縁結び、安産、子育て等の守護神として親しまれています。例大祭は12月22日となっています。

春宮

春宮に入り口です。
春宮(はるみや)は下社最初の鎮座地と言われています。下諏訪駅から春宮大門と呼ばれる大鳥居を経由して徒歩25分。建築物は秋宮の立川流に対して大隈流の柴宮長左エ門が建立。杉の木を御神木としています。

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春宮一之御柱。7年に1度の御柱祭の際に氏子により山奥より曳行されて来てこの地に建っています。下社の場合、弊拝殿に向かって右前が一之御柱、左前が二之御柱、左後ろが三之御柱、右後ろが四之御柱となっています。

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神楽殿。文字通りご神前でお神楽を奉納するための建物です。落成は天和年間(1680年代)頃と言われています。毎年初夏にはお舟祭の際の時代行列の華である万寿姫(まんじゅひめ)コンテストが行われるのもここです。

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弊拝殿(へいはいでん)は国の重要文化財に指定されています。御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となった造りのため、こう呼ばれています。建築様式は二重楼門造りです。落成は安永9(1780)年と秋宮より1年早くなっています。
棟梁は大隈流の柴宮長左エ門が務めました。絵図面は秋宮と同じ物で社殿の構造も基本的には同じ物となっています。

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春宮境内にある木落坂。ここに春宮3と4以外の6本の御柱が落とされます。春宮1と2はここを落とされたあと境内で建て御柱が行われ、秋宮1から4の御柱は春宮大門経由で秋宮まで曳行されます。春宮3と4は通常は立ち入りが規制されている弊拝殿の奥に木落としされ、そこで建て御柱がなされます。
下社の御柱祭では木落とし坂と注縄掛けを下る際とここ春宮境内と3度の木落としが行われるのです。

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春宮境内から前の道を真っ直ぐ進んだところにあるのが下馬橋です。これよりは下馬下乗と言って例え大名でも馬や輿から降りて歩いて進まなくてはなりませんでした。その形から戴小橋とも呼ばれています。室町時代に建立され元文年間(1730年代)に改修されたと伝えられていて、現在の下社では最も古い構造物となっています。現在は年に2度行われる神幸行事の際に神様が乗った御輿のみが通ります。

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春宮境内から下馬橋を越え更に進むと国道20号線と交わります。その場所に立っている鳥居を春宮大門(はるみやだいもん)と呼びます。
この春宮大門から東へまっすぐ進むと秋宮にあたります。そこでこの大門から秋宮までの間の国道20号線を通称大社通りと呼びます。

平成20(2008)年11月2日に撮影した平成の大修理中の春宮弊拝殿そして左右片拝殿の様子。
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お社の説明・上社

上社は諏訪湖の南側、諏訪市と茅野市にまたがって存在しています。
諏訪大社上社は現在の本宮と前宮の間がすべてが神域という広大なものだったと思われます。その広大な神域の中に施設が点在していたと思われます。名残として神宮寺跡などがあります。その広大さ故、明治以降の時代の波に飲まれ、その多くを失ってしまったものと思われます。特に前宮の境内はその中に道や民家が入り込んでしまっています。他にも五重塔跡や弘法大師の伝説が残る五本杉などはマレットゴルフ場が入り込んだ児童公園となってしまったりしています。

2002年6月2日に諏訪大社上社は豊作を祈願する恒例の御田植祭を行いました。本宮近くにある藤島社の斉田で白装束に赤い襷に菅笠という出で立ちの早乙女23人が早苗を植えた。良縁に恵まれるといわれる早乙女には上社の氏子の中から20歳前後の女性が選ばれました。

本宮

茅野駅からバスで20分、上社前下車。宝物館は400円。駐車スペースは約300台。4つのお社の中でも最大の規模を誇っています。その中でも渡り廊下は一見の価値ありです。諏訪大社に共通していることではありますが、拝殿奥の森に神が住んでいるとされ、本来神が奉られる本殿がないというのが特徴です。

建って見える御柱は本宮一之御柱です。 (C) renya.com (C) renya.com (C) renya.com (C) renya.com (C) renya.com (C) renya.com

(C) renya.com (C) renya.com 平成14年(2002)4月2日の午後3時頃諏訪市中洲神宮寺にある諏訪大社上社本宮の二之鳥居。その貫(ぬき)と呼ばれる5.5メートルの長さを横を結んでいる柱にトラックに載せていた荷があたり、落下しました。また最上部のかさ石もバランスが崩れたために、その日の内に撤去作業が行われました。
この鳥居は本宮の7つある鳥居の1つで明治32年(1899)に下諏訪町の砥川流域の安山岩製。御柱祭の際には芸傘という騎馬行列が傘を超えさせる芸で知られています。


2002年4月2日にトラックの積荷がぶつかって貫(ぬき)と呼ばれる部分が落下した諏訪大社上社本宮の二の鳥居の再建工事が2003年6月23日からはじまりました。
笠石なども除去し柱だけになっていた諏訪市神宮寺の東参道にある鳥居は6月24日までに除去作業を完了し、6月末までには基礎工事まで終わらせる予定で、7月末には新しい鳥居が完成する予定とのこと。
渋崎建設が請け負い中国産黒御影石を使用する新しい鳥居は高さ約7.2メートル、幅約11メートルになる予定とのこと。

駐車場は約300台。宝物殿の拝観料は400円。

前宮

諏訪大神第一の鎮座地と言われています。現人神である大祝(おおほり)の居館である神殿(ごうどの)もこちらにありました。本宮から車で五分。古来は本宮よりもこちらの方が栄えていたようですが、現在は他の三つのお社に比べると規模も小さく観光客もほとんどなくとても静かな雰囲気。巫女さんの中にも本宮よりもこちらの方が好きだという人がいます。安国寺区史友会による解説の立て札がいたるところにあるので、ゆっくりと散策を楽しむのもいいと思います。

古来は広大な境内だったと推察されますが、現在はその間に道や民家が入ったりしています。

(C) renya.com (C) renya.com (C) renya.com 前宮の三の御柱側から写した図。 (C) renya.com

大祝

諏訪には『大祝』と書いて『おおほうり』と呼ばれる現人神がいました。
大祝とは諏訪明神の化身、現人神として諏訪大社の頂点に位置していた役職で、大いなる存在として存在していました。

諏訪大社の現人神として奉られた大祝(おおほおり)の即位式は天保12(1841)年まで行われていました。
明治維新の際の廃仏毀釈の折に廃止され、現在にいたっています。

下社と上社には別々の大祝が存在していました。

上社の大祝は数多くの氏族が分出していったため系統を見極めるのが困難ですが、平安時代中期以降神家の嫡男が相続するようになり、その大祝家を宗家とする神家党と呼ばれる東国屈指の武士団を形成していました。
戦国時代に甲斐の武田氏と争い1532年に武田信玄により諏訪一族の総領でありまた大祝でもあった戦国大名の諏訪頼重が滅ぼされたことで大祝家は断絶しました。その後、徳川家康に仕えていた頼重の従兄弟の頼忠が諏訪地方を領有し、その子頼水が高島藩3万石の初代藩主となりその後子孫が代々相続し10代忠礼の代に明治維新を迎えました。そして諏訪大祝職は頼水の弟の頼広が継ぎ、その子孫が代々相続し頼武の代に同じく明治維新を迎えました。

上社の災難をもう1つあげておきますと、天正10(1582)年には織田信長の嫡男、信忠が上社を焼き討ちしました。

下社は金刺舎人を祖とする金刺(かなさき)氏が大祝を世襲していました。金刺氏は他に諏訪氏または手塚氏とも称し、木曽義仲に従い名を馳せた手塚太郎光盛や鎌倉の御家人となったその兄盛澄などがいます。しかし戦国時代中期に上社に滅ぼされ断絶し、そのまま下社の大祝は空位のままとなりました。

諏訪大社上社大祝(おおほうり)家の建物や資料などが諏訪市に寄付され、2007年12月20日に引渡式が行われました。平成14(2002)年に諏方家当主の諏方弘氏が亡くなった後、相続人不在となり、相続財産管理人の早出由男弁護が文化財保護の観点から申し入れていたもの。寄付されたのは神宮寺今橋の居宅(約265平方メートル)と総門、土蔵(約49平方メートル)。茅野市宮川の大祝家墓地(約684平方メートル)。数千点の古文書などの資料。

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信州(長野県)諏訪地方万物記
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