幕末という言葉はいつからいつまでを指すのだろうか。色々説はあるだろうが、私は寛永6年6月4日(1853年7月8日)のペリー来航にはじまり西南の役の結果明治10年9月24日(1877)に西郷隆盛が自決した時に終るのではないかと思う。
 たしかに徳川幕府は江戸城無血開城により名実ともに崩壊し、幕府という政治形態は消滅した。しかし、それでもなお私は幕末は西南の役で終ったと思っている。それはこの西南の役よって源平以来の侍が日本から消滅したからである。


 真に幕末の動乱が始まったのは、万延元年(1860)3月3日に大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された時だろう。
 そして慶応2年(1866)1月21日の薩長連合成立で動乱は終結した。

 政権は源頼朝以来700年に渡り武家が握っていて、そもそも鎖国は武家の独断で行われた。それがいざ開国の際は朝廷の許可がいるという事が摩訶不思議なのである。


 徳川慶喜が第15代征夷大将軍についてから江戸城無血開城までどの段階においても宗家たる慶喜が勝とうと思えば、徳川方が勝った。私はそう思っている。
 幕末、徳川幕府はそれまでの太平の世ですっかり腐りきっていた。たしかにその通りだと思う。度重なる改革の失敗。ペリー来航後の対応も歴然としたものではなかった。第2次長州征伐の失敗などはその最たる物だろう。鳥羽伏見の戦いの頃には装備の面においても薩長の方が優れた物を備えていた。それはたしかだと思う。
 しかし、そうであっても宗家たる慶喜が本気で薩長を討伐し徳川家による政権を保とうとしたなら、それは十分に可能であったと思う。

 ただ、ここで忘れてはならない事が1つある。もし幕末の騒乱で徳川方が勝利したならば、日本国は日本国としてはいられなかっただろう。おそらくイギリスかフランスかはたまたアメリカか。欧米列強の植民地となっていたと思う。

 鳥羽伏見の戦い。歴史の結論から言えば、薩長勢力が徳川勢力を破り、その後の流れを決定的なものとした。徳川方は人数では圧倒的ながらも装備の点で劣り破れたとされている。しかし、薩長ほどではないにしろ、徳川方もそれなりの装備は持っていた。破れた理由の第1は、戦意の問題だろう。しかし、ここで家康以来の金扇の馬印が戦場にたなびいたならばどうなっていただろうか。

 いや、仮に鳥羽伏見の戦いに徳川方が破れたとしても、無傷の大阪城とそこにいる徳川方主力部隊がある。これを破る術は薩長にはない。

 徳川慶喜という男は日本史上でも有数の傑出した大人物だと私は思う。
 慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗戦が濃厚となると敵からも味方からも逃げだし、海路を江戸に戻ったとされている。たしかに一見すると逃げたように見えるだろう。
 しかし、慶喜が逃げる理由がどこにあるのだろう。大阪城とそこにいる自軍の主力はまったくの無傷。慶喜自身もまったく戦をしらないわけではない。蛤御門の変では禁裏御守衛総督として長州軍の猛攻に堪え忍んだほどの男である。

 たしかに薩長が強引といえる手段で錦の御旗を奪い、自分達を官軍とした。それが尊皇の思想が強い水戸出身の慶喜に与えた影響は大きいだろう。しかし、それは些細なことでしかないと思う。

 慶喜が会津藩を見殺しにしたというのはおそらく正しいと思う。


 江戸城無血開城。これは古今東西どこを見ても他には見られない珍事とも言える出来事である。慶喜の絶対恭順の意を受けた勝海舟と西郷隆盛の2人の話し合いにより実現した。


 戊辰の役と西南の役。この2つの戦は武士という旧時代の存在を明治という新時代は既に必要としなくなっていた為に起こったものだと思う。


 維新である。革命でもクーデターでもない。日本の不思議さと言えば不思議さであると思う。
 革命とは天命が覆るという意になる。古来中国では王権神授説と同様に皇帝は天帝により命じられたものであるとされ、革命とはその天帝による命が覆り皇帝が変わるという意味となる。クーデターとは政権内部にいるもののその中枢にはいないものが政権を握る事をいう。
 明治維新とは革命でもクーデターでもない異色の政権交代劇であると思う。

 明治維新は断じて市民革命ではない。新政権の中心となった京都の公卿にしても薩長の武士にしてもその地位の高低はどうあれ、間違いなく旧時代においても支配者階級の人間である。騎兵隊などに若干被支配者階級のものが入っていたとはいえ、そのほとんどは旧時代においても支配者階級の人間による政権交代抗争、それが明治維新というものであろう。


 天皇と将軍の関係は欧州における教皇と皇帝の関係に似ていると思う。
 天皇は大和民族という大家族の宗家であり、祭司である。そして血族信仰の総本山。


 坂本龍馬による船中八策。
 第一に天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべきこと。
 第二に上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべきこと。
 第三に有能な公卿諸侯及び、天下の人材を顧問に備え、官爵を賜い、宜しく従来有名無実の官を除くべきこと。
 第四に外国の交際を広く公議を採り、新に至当の規約を立つべきこと。
 第五に古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべきこと。
 第六に海軍宜しく拡張すべきこと。
 第七に御親兵を置き、帝都を守衛せしむべきこと。
 第八に金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべきこと。

 この土佐藩船の夕顔丸の上で書いた船中八策が大政奉還に関する建白書や五箇条の御誓文の元になった。


 新撰組。それは幕末という動乱の時代に生まれた最強の剣客集団。
 歴史は勝者が作る。その為、敗者にとっては屈辱的な内容になる事が多い。しかし、敵役がいるからこその歴史なのである。現在の新撰組の評価はとても敗者のものとは思えない。ある種の理想像がそこにはあるような気がする。


 長州藩つまり毛利家は小さな豪族から中国地方の盟主となった毛利元就以来の名家で豊臣政権では五大老の1人として150万石の大大名だった。それが関ヶ原の合戦後、わずか15万石とされ、本拠地広島から遠く離れた萩に押し込められたのだった。


慶応3年12月9日 王政復古の大号令 江戸幕府の廃止を決定
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